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つくる人のはなし #04 姫野作.【本手打アルミ行平鍋】

つくる人のはなし #04 姫野作.【本手打アルミ行平鍋】
釜浅商店で人気の鍋といえば、なんといっても「姫野作.本手打アルミ行平鍋」。これを手がけているのが、1924年創業の大阪の鍋工房、姫野作.です。打ち出し(鎚起)によって生まれる槌目は、意匠として美しいだけでなく、鍋肌の表面積を広げることで、熱伝導率の向上にも寄与。熱が食材に均一に伝わるため、料理のプロにも愛されてきました。今回はものづくりの街として知られる大阪府八尾市の工場で金槌を振るう3代目、姫野寿一さんのもとを、ゼネラルマネージャーの和田洋一が訪ねました。
姫野作.本手打アルミ行平鍋の詳細はこちら
釜浅商店 和田洋一
KAMA-ASA STAFF 和田 洋一 / Yoichi Wada
TOPICS

つくる人姫野作.

姫野作.
姫野寿一さんの祖父が1924年(大正13年)に当時の大阪市天王寺区上汐町で創業。当初からアルミ鍋を中心に製作していた。姫野さんの父の代の1965年(昭和40年)頃に現在の八尾市太田に移転。1960年(昭和35年)生まれの姫野さんは1988年(昭和63年)に家業に入り、2010年(平成22年)頃から代替わり。アルミと銅を原材料にした厨房機器や調理器具などを中心に製作している。himenosaku.net/

TOPICS 01家庭でも飲食店でも大活躍。和食の頼もしい相棒、本手打アルミ行平鍋

整った槌目が美しいアルミ製の行平鍋は、野菜を茹でたり、出汁をとったり、煮物をしたりと、さまざまな調理で活躍する万能選手。特に手打ちの鍋は熱伝導率が高く、火の通りが早いこともあって、家庭のみならず和食のプロフェッショナルの厨房でもよく使われています。アルミニウムには叩くと薄く広がる“展性”という性質と、叩くことで結晶構造が整い、強度が増すという性質があり、行平鍋をはじめとした本手打アルミ鍋各種はこの原理を使って作られたもの。姫野寿一さんは、現在では全国でも数人しかいない、鍋の鎚起職人の第一人者です。

日々の料理に活躍する行平鍋。熱伝導率が高いため火の通りが早く、手早く料理するのにもぴったり。

釜浅商店で扱う姫野さんの行平鍋は、厚さが3mmもある、しっかりとした作りも特徴のひとつ。じっくり均一に、食材に火が入ります。釜浅商店と姫野さんの鍋とのお付き合いは2000年代後半にスタート。その後は常時数種類の鍋の取り扱いつつ、おでん鍋を中心にさまざまな鍋や容器のオーダーもお受けするようになりました。

和田
姫野さんと釜浅の出会いが面白いんですよね。なんでも、うちの先代が店の外にいた時に、ちょうど合羽橋に来ていた姫野さんと目が合ったとか。

姫野さん
そうなんですよ。合羽橋に鍋を入れたでっかいカバン持って売り込みに行った時、通りを歩いていてパッと目を上げたら、たまたま店の前にいた社長の親父さんと目が合うたんですよね。それで、行きと帰りに2〜3分ずつ喋ることができた。行きにうちの鍋の説明をコピーしたものを渡しておいたら、帰りにお店に寄った時にちゃんと机に置いてくれてたんですよ。その時はどの店でもほぼ門前払いだったから、めちゃくちゃ感激してね。

和田
その時には商談にはならなかったんですか。

姫野さん
そりゃ、どこの誰かもわからないような奴が突然来て、じゃあ頼みますとはならないよね。その時はちょっと喋っただけ。でも、置いていったコピーを今の社長が見ていて、後に「いつか自分が店を継いだ時に声をかけたいと思ってた」って連絡をくれて。それからすぐに八尾に来て、「オリジナルの商品を作って店で展開していきたい」みたいな構想を聞かせてくれたんです。それ以来のお付き合いです。

和田
僕が入った頃にはもう店頭に並んでいたかな。お陰様で、姫野さんの鍋は釜浅を代表する商品のひとつとして常に売れ続けています。姫野さんの鍋のすごいところは、本当に細かいところまで気配りして、綺麗に仕上げてあること。槌目がどうとかというよりも、別の綺麗さがあるんですよね。それは手に取った瞬間にわかります。使う人のことを本当に考えている。

姫野さん
釜浅さんの仕事はうちの中心。和田さんをはじめ、みんながお世辞でも褒めてくれるんで、作るモチベーションが上がります。大阪の人に褒められたことなんかないですよ。どや!みたいな気分で見せても「そこ置いといて」って言われるだけです(笑)。

 

TOPICS 02全ての作業を一人で。100点を目指し続ける鍋作り

さて、金属加工の町工場が点在する八尾の川沿いエリアにある姫野さんの工場で働いているのは、姫野さんと、女性見習い職人の三村茉由(みむらまゆ)さんと薬師寺千誉(やくしじちよ)さん。鍋を叩くのは、まだ姫野さん一人です。

定番の行平鍋作りは、ボウル状で仕入れた鍋の原型を底から金槌で叩いていくところから始まります。オーダーものの場合は、アルミ板にコンパスなどを使ってアウトラインを描き、金属鋏でカットしてから、木槌で叩いて鍋の形に起こしていくところからスタート。深い鍋の場合は溶接で継いで原型を作ります。叩くのはこちらも底の部分から。まず中心を決めて、そこからぐるっと回しながら叩いていきます。

まっさらなアルミ鍋。最初は鍋底の中心を決め、そこから一定の感覚で叩いていく。

姫野さん
鍋を叩くのに使う木槌や金槌は親父が使っていたもの。おじいちゃんが使っていたものもあるかな。雪平用、やっとこ鍋用と鍋ごとに使う鎚は違います。叩くこつは、腕の力ではなく、手首のスナップを使うこと。鎚の重みで柔らかい金属をカシッと締めてあげるんです。右手に鎚を持って1回叩いたら左手で鍋を回す。動かすのは8mmだったり10mmだったりですが、それをコントロールするのが左手の役割です。

アルミは柔らかいので、側面は広がってこないように、まず木槌で軽く叩いて締めてから、金槌で槌目を付けていきます。一通り叩いたら、最後は鍋の内側から鳥口と呼ばれる鉄の棒を当てて、底からの立ち上げ部分をしっかりと。1cmくらいの幅の部分を4周叩いていくのですが、だんだん硬くなっていくため、カーンカーンという高い音が響きます。

姫野作本手打行平鍋 鍋の立ち上がり部分を念入りに打つ

底と側面の境目の部分は特に丁寧に。「鍋は下から熱がくるし、五徳に乗る部分なので、この部分が丈夫でないとあかんのです」と姫野さん。

叩き終わったら、次は機械で柄をつける部分に穴を開けます。穴のバリを取ったら、次は注ぎ口の成型。山型になった金床に合わせて鍋をセットし、これもプレス機で一瞬です。刻印を入れたら、次は柄つけ。柄の付け根の金属部分を4本の鋲を打って留めたら、鍋と金具の隙間に爪を入れて確認し、木槌で叩いて密着させていきます。最後に、木の柄を差し込んで叩いたら、付け根から木の柄まで届く穴を開けて、ネジで締めて完成です。

叩き終わった鍋には「本手打」、サイズ(数字)、釜浅のロゴ、そして「姫野作.」の刻印を。「2000個に1個くらい、今でも刻印を打ち間違えることがある。そうなると商品にならないので、がっくりきますよね(笑)」と姫野さん。

柄を固定するためのネジ穴を開けているところ。

完成したばかりの鍋を手に取ってみると、その槌目の揃い具合や柄の付き方などの細部まで美しく、改めてため息。ここまでできるようになるのに、姫野さんは10年以上かかったといいます。

姫野さん
といっても、今は90点くらい。昔は80点って言うてたけど、今は90点くらいはいけてるんちゃうかな。死ぬまでに100点取りたい。99点でも、100点近い99点を取れたら。1000個叩いて1回もミスがないようになれば。同じように手を動かしてるんだけど、どうしても打ち損じが出てきちゃうんですよ。

祖父や父の時代から受け継いだ道具が並ぶ工場の一部。作業の時に腰かける椅子は、姫野さんの甥が幼少期に使っていた子ども椅子だそう。

そう謙遜する姫野さんですが、槌音のリズムは完璧と言えるほど一定。まるで音楽のようです。

 

TOPICS 03祖父や父から受け継いだ道具で続ける鍋作り

姫野さんのお祖父様が姫野工作所として鍋作りの会社を立ち上げたのは、1924年(大正13年)のこと。その始まりは意外なものでした。

姫野さん
祖父は大正の終わり頃まで、空堀通の横の楠木通っていうところで和菓子を作って売ってたんです。和菓子屋には銅の鍋があるじゃないですか。あれを修理に出すのに、京都まで持っていくのは大変だから職人を呼んだらしい。それを見て祖父は感動して、じゃあ鍋屋をするぞ、と。ネタみたいな話ですけど、僕はその話を親父から聞いたことはなくて、親父が死んだ後に親戚のおばちゃんから聞いたんです。その時初めて、お菓子売ってたんや、と。

和田
じゃあ、それで和菓子屋さんは辞められて、京都に修業に行かれたんですか?

姫野さん
いや、なんの力関係が発生したのか、京都から職人さんに来てもらって。でも当時は黒門市場あたりにも10軒くらい鍋屋があったみたいで、職人さんたちもその周辺にいたみたいですね。1924年(大正13年)に鍋屋として創業して、当初から主に作っていたのはアルミ鍋。銅もやってはいたけれど、当時は銅を塊で買ってきて、それを板に伸ばして作っていたので、すごく高価だった。それで、アルミが中心になったみたい。

和田
お父様は最初から家業に入られたんですか?

姫野さん
親父はね、最初はサラリーマンしてたんです。戦争から帰ってきて、最初は鍋屋ができなかったんですよ。それで、食べるものを買うためにサラリーマンをしてたみたいで。少なくとも戦後しばらくはそうしてたんちゃうかな。八尾に移ってきたのは1965年(昭和40年)くらい、僕が幼稚園の時。昭和のいざなぎ景気(1965〜70年)の頃のことで、作ったら売れ、作ったら売れだったらしい。あの頃は8人から10人くらいは職人さんを抱えてたみたいです。この工場はその頃からほとんど変わってないですよ。道具もその頃のもの。その頃は今みたいに「鍋はやっぱり手打ちやで」みたいなのはなかった。ものがない時代だから、給食センターで食缶がいると言われれば組んで溶接してはいどうぞ、みたいなね。

姫野作. 工房の切り株

「親父は『昔からあるな』しか言わなかったので、いつからあるのかはわからないんですが、とにかくずーっとここにあるんですよ」という、鍋を叩く台にした木の切り株。

和田
じゃあ、その頃は賑やかだったんですね。ものすごく景気がよかった。

姫野さん
そうです。で、その景気は10数年続いた。そしたら、「銀行からお金を借りてオートメーション化しませんか?」という声がかかる。で、家族会議になったんだけど、祖母が「いつまで景気が続くかもわからないのにそんなことするな」って言ったらしく、しなかった。当時、東大阪に移ってオートメーション化したところは全部潰れたらしいですよ。で、よかったね、って言ってたら、今度は「中国に行きませんか?」って。これも家族会議で行かないことになったんですけど、行った会社は潰れて帰ってきてね。当時黒門あたりには鍋屋は約10軒あったけれど、今は2軒です。

和田
そうなんだ。じゃあ、姫野さんのところで今のような形の定番商品ができたのはいつ頃のことなんですか?

姫野さん
定番みたいなのは親父がやり始めたんですけど、昭和50年代じゃないかなあ。道具屋筋だけで商売していたんだけど。この頃には職人も5〜6人になっていたと思います。今みたいに叩く、槌目をつけるというのは昔からあったんですけど、戦後は叩いてる余裕はないから、形にしたら出せ、という感じだったと思う。再び叩き始めたのは僕が子供の頃じゃないかな。道具屋筋で行平鍋として並べてもらうようになってからだから、今から5、60年ぐらい前の話とちゃいますかね。

姫野さんの道具 金づちと径を測るコンパス

叩くものや叩く箇所によって使い分ける金槌や、印をつけるためのコンパスなど。

和田
姫野さんは最初、会社員をしてらしたんですよね。どうして跡を継がれたんですか。

姫野さん
高校を出て、まず車屋に2年行って、不動産屋に1年行って、あと化粧品の問屋にも6年行って。28まで、約10年間は外で仕事していましたね。小学校から高校までこの工場から通ってたんだけど、当時は親父が事務所にいて、職人3人が叩いていて、あともう1人若い兄ちゃんがいろんな雑用をしててね。ラジオの音も聞こえるような状態じゃなかったから、うるさいな、って思ってたんです。クーラーもなかったし、朝8時から夕方6時まで、土曜の休みもなく働かなきゃいけないから、絶対嫌やと思ってました。でも28ぐらいの時に、工場のおっちゃんの1人が腰が悪くなって辞めて。親父が「ものすごく忙しい」って言うから、ほんまにちょっと手伝うぐらいの気持ちで入ったんですよ。なのに、周囲の業者の人やお店の人が、親父に「よかったな、帰ってきてくれて」って言うんです。それで、ほんまいつの間にか、です。

仕上がった鍋を見つめる釜浅商店 和田

出来上がった鍋を手に。「姫野さんの仕事はどこまでも丁寧で綺麗。使う人のことを本当に考えて作ってあるんですよね」と和田。

和田
お父様とは何年くらい一緒にやってらしたんですか?

姫野さん
親父は15、6年前に亡くなったんで、一緒にやったのは20年もないかもしれない。でも、いつも喧嘩ばっかりでした。僕は「こんな会社辞めてやる!」って3回くらい家出してます。でも、まあ数日遊んで、スッキリしたら帰ってきた。誰も何も言いません。仕事を教えてくれたのは伊東さんという職人さん。親父も教えてくれようとはするんですけども、あきませんでしたね(笑)。喧嘩ばっかりで、伊東さんがレフリーでしたね。

和田
ハハハ(笑)。

姫野さん
僕は対等な立場で、一緒にやってくれる取引先と仕事したかったんですけど、親父は得意先の言うことを全部聞いて、自分の主張は全くしなかったので、そういうことでも言い合いをしました。最終的には勝手にせえ、と言われて、ありがとう、ということで(笑)。ある時、ある通信販売会社で27cmの段付鍋がものすごく売れたんですよ。それをきっかけに、取引先が広がりました。釜浅さんと出会ったのは、ちょうど親父と伊東さんが続けて亡くなった頃のこと。そこからいろいろなことを変えました。会社名も姫野工作所から姫野作.に変えましたしね。

大阪府八尾の姫野作. 看板

姫野さんの代になって、会社名も「姫野作.」に変更。

 

TOPICS 04若い女性たちがものづくりを支える! 姫野作.のこれから

和田
姫野さんの代になってからの勢いはすごいですよね。うちだけでもかなりお願いしてますけど、姫野さんの鍋は今やうちの看板商品で。最初はやっぱり値段も高いし、そこまでは動かなかったんですけど、特に「姫野作.」という名前が入るようになってからは理解が広がったのか、本当によく売れています。うちでは今は6.5寸(深型19.5cm)が一番出てるかな。あとは段付鍋ですよね。最近はセイロがよく出るので。僕はずっとセイロは売れる商品だと思ってたんですけど、なかなか売れなかった。何でだろう?と思ったら、合う鍋がなかったからだったんです。それで、姫野さんにお願いして、サイズを変えてもらって。そしたら大当たりでした。

中華せいろがのった姫野作本手打段付き鍋

「釜浅の中華せいろ」と組み合わせて使える「姫野作.本手打アルミ段付鍋」。せいろに合わせてサイズを変更してもらったことで売り上げがぐんとアップした。

姫野さん
釜浅さんでありがたいのは、お店の人たちがお客さんに対して、お鍋に対する愛情が感じられる説明をしてくれてること。僕も催事の時に百貨店に行くと、何度も来るお客さんがいるんですよ。手に取っては離れて、また戻ってきて。作ってるの僕なんですよ、説明しましょうか?って言うと、うんうんって聞いてくれて、買うてくれはって。こういう経験を通じてわかったんですけど、説明してくれる店なのか、全然ほったらかしの店なのかでは、やっぱり全然ちゃうと思うんです。釜浅さんには納品が遅くて怒られたこともないし、ありがたい限りです。

和田
納品に関しては……だって、現場に来てこの状態を見たらねえ、言えないですよね(笑)。今は姫野さん一人だし。

姫野さん
そんなん言われたら甘え倒しますよ(笑)。でも、ちょっと前から和田さんや社長に話していた通り、今は次を継いでいってくれる子を育てなきゃと思っていて。だから今は仕事せなあかんし、ここにいる2人に教えなあかんし、怪我さしたらあかんしで、ちょっとバタバタしています。でもあと2、3年したらちょっと変わっていくかな。

ドラムをつくる姫野作. 三村さん

スネアドラムのシェル部分を叩く三村茉由さん。高校で金属工芸を学び、その後大阪市立クラフトパークで金工を習っていた時に先生の紹介で姫野作.へ。「少しずつですが、金槌で金属を打つことにしんどさがなくなってきた実感があります」と笑顔。

和田
そこについては、うちでも全力でお手伝いしたいと思っているんです。彼女たちがレギュラー品をできるようになったら、姫野さんにはいろいろなオーダー品とか、面白い1点ものとかにもっと取り組んでもらえますし。三村さんは今、うちで販売している「アルミマルチトレイ」を作ってくれているんですよね。

姫野さんの別誂え品 瓢箪型の銅製おでん鍋

オーダー品のひとつとして製作された銅のおでん鍋。こんな変形タイプも作ってもらえる。

近鉄線 東花園駅のラグビーボールのオブジェは姫野さんの手によるもの

姫野さんが「オーダーもので一番面白かった」と話すのが、花園ラグビー場のある近鉄の東花園駅に飾られている巨大ラグビーボール。「ちょうどリーマンショックで暇だったこともあり、大阪芸大の学生と僕の後輩の4人で3週間くらいかけて作りました」とのこと。

姫野さん
若い子たちを育てるにはね、商品をやってもらったほうがいいんです。その辺に置いてある板を全部、裏表叩くのでも練習にはなるんですけど、商品として買っていただくとなると覚えるスピードが違うし、丁寧にする。そのほうがキャリアはつくかな、と思っています。ほんまは10年かかるところを、何とか巻きで独り立ちさせたいと思っているんですよね。彼女たちには「学校の授業でいいよ」って言ってるんです。50分叩いたら5分休憩したらいい。休憩したらあかんよとか、お昼まで頑張りよとか、朝一で来いとかね、そういう時代じゃない。

姫野作. 見習い 薬師寺さん

2024年10月末に入った薬師寺千誉さん。大阪芸術大学でガラス工芸を学ぶ彼女は、なんとテレビ番組『発見!関西みらい遺産 なすなか漫遊記』で姫野さんが後継者を募集していることを知ったお母様のすすめで働き始めたのだそう。

和田
女性が二人入って、姫野さんは変わりました?

姫野さん
一人でやっているのとは空気感が全然違いますね。よく喋るようになりました。一人だと誰かが来た時だけですもん、喋るのは。

和田
そうなんだ(笑)。お二人の成長が楽しみです!

姫野作. 右から三村さん、姫野さん、薬師寺さん

若い女性たちの存在で、古い工場が明るくなったと話す姫野さん。

 

 

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釜浅商店 和田洋一
KAMA-ASA STAFF 和田 洋一 / Yoichi Wada
釜浅商店ゼネラルマネージャー。2011年2月入社。売場でお客様とのコミュニケーションを通じて得た経験をもとに、包丁にやさしいまな板、釜浅のごはん釜、釜浅の炭火焼台などの産地の作り手と連携しオリジナル商品の開発に携わる。
2児の父で、休日は釜浅の道具を使い家族に料理を振る舞う。趣味は筋トレ・格闘技(MMA)・サウナ。

 

執筆・編集:山下紫陽 撮影:釜浅商店